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語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

生きる目的は何なのか?子孫を残すため?いやいや目的なんてあるわけない

 「人はなぜ生きるのか」という疑問や、「生きる目的がわからない」という悩みを抱く人はいつの時代、どこの場所でも存在する。
 この記事を見ている方も、おそらく一度ぐらいはそういうことを考えたことがあるだろう。

 

 これに対しては様々な回答があると思うが、私は「どの宗教も私一人を救うことすらできていない。私を救えるのは科学技術ぐらいだ。」、「神がいるとしたら私にこんな思いをさせないだろう。仮に神がいるとしたらそれは間違いなく邪神だ。」という暴言を吐いている人間なので、スピリチュアルな回答を見るとどうも嫌気がさしてくる。
 そこで、スピリチュアルな回答を否定した上で回答を考えてみたいと思う。

 

 

○子孫を残すため、種を残すため?

 人やそれ以外の生物が生きる目的は、子孫を残すためとしたり顔でいう人は実に多い。

 しかし、果たしてそれは目的といえるのか、目的として挙げるだけの妥当な根拠があるのだろうか。

 以下に詳しく突っ込んでみることにする。 

 

・目的ではなく結果なのでは?

 現代人は知能が発達しているため、子を残すために社会生活を営む者もいるだろうが、他の生物はいちいち「子を残すために生きているんだ」などと考えることなどしないだろう。

 たまたま大人になるまで自然界で生き残り、たまたま異性の個体と巡り合えた結果、子孫を残せただけであり、別に子孫を残したいという意図や目的をもって生きているわけではないはずだ。ただ生まれたから生き、生きているから子孫を残したというだけである。

 

 人類も原始時代などは好きな相手と一緒に生活していたら子どもができたというパターンがほとんどではないかと思われるし、現在でもそういう人は少なくないだろう。

 宗教的には、何らかの使命や目的をもって生まれ生きていると説明するだろうが、実際には他の動物と同様、ただ生まれたから生き、生きているから子孫を残したにすぎないのではないだろうか。

 生きた結果にすぎないことを、一部の人間が勝手に目的にすり替えようとしているだけではないだろうか。

 

 

・すでに人口過剰なので、目的として掲げる妥当性がない
 日本は少子化傾向にあるので、国も社会も子どもを産め産めとうるさいが、世界的に見れば人口爆発現象が起きており、人類全体という広いくくりで見れば十分に人が増えすぎている。

 食糧危機の恐れがあるし、自然への負荷も大きいことからすると、人類のためにはむしろみんなが子孫を残すと困るのである。

 ヒトという種の繁栄という観点では、他に子孫を残す人があまりにも大量にいるため、私たち自身が子孫を残すために生きる必要はないのである。

 

 

・個人が子を残す必要はないので、目的として掲げる妥当性がない
 上とも重なるが、種を残せばよいと考えると、種族全体で子孫繁栄という目的を達成できればよいので、個々の個体が子孫を残す必要は別にない。

 人類全体で見れば子孫を残す必要があると仮定しても、私たち自身が子孫を残すために生きる必要はない。他の人たちに産ませればそれでいいはずなのである。

 


・子供産めない人には妥当性がないし、何より味気ない
 世の中には肉体的な理由から、子どもを作れない人も当然一定数いる。そういう人たちは目的不達成は確実である。

 生きる目的が子孫を残すためであるとすると、そういう人たちは人生半ばにして、「あなたは人生の目的達成できません。あなたは生きる意味がありません」みたいなことを言われるようなものなものではないか。

 

 これではなんとも味気ない。人生はもっといろんな目的をもって生きてよいと考える方がベターではないだろうか。

 

 

・育児終えたらそれで終わり?
 それに子育てを終えたら、もはや人生の目的達成で残りの人生は消化試合なのだろうか。

 今や人生80年時代であり、育児を負えてもまだ人生は30年以上残る。

 子を残すことを人の目的とすると、最後の30年以上は何の目的もなく生きるつまらない人生になってしまわないだろうか。

 とてもじゃないが、人生の8分の3もの長い期間を消化試合と考えるべきではないだろう。

 


○社会・組織・共同体などに貢献するため

 社会などに貢献するためというのもたまに目的として言われることである。

 それは確かに望ましいことではあるのだが、果たして目的になりうるのだろうか。

 

 確かに、イエというものが重大な価値を持っていた時代では、イエのために人は働き、命を懸け、子孫を残したと言っても過言ではなく、イエのために生きていたところがあるだろう。

 しかし、今やイエは存在しないし、地域における共同体も力が弱まっている。

 それに、「人は何かの組織や共同体のために生きなければならない」となるのはまっぴらごめんという人がほとんどだろう。「いつ出ていくかわからない地域社会などより、自分の人生を大事にさせろ、自分のために生きさせろ」という話である。

 民主主義社会ならそういう声が認められるべきであるし、生きる目的としては不採用とすべきである。


 だいたい、多くの職業や役割は、自分がいなくても他の人が代わりになることが多いし、その人がいなくても特に問題がなかったり、ちょっとの問題しか起きなかったりすることが多い。

 また、そもそもその組織や共同体が残る必要性があるのかもわからない。ゴミのような組織は潰す方が社会的利益に適うだろう。

 それに組織や共同体は離脱しても構わないはずである。

 そう考えていくと、他者や組織のために生きなければならない必要は別にないはずだ。

 そのため、社会・組織・共同体に貢献するというのも人が生きる目的として掲げる妥当性があまりないだろう。

 


○楽しむため

 熟考した末に悟りを開いたのか、はたまた快楽主義に陥ったのかはわからないが、楽しむために生きるんだよという人もいる。
 しかし、人間は都合の良いことばかり記憶するだけで、むしろ人生は苦しみの方が多い気もするし、人生を楽しむのは良いことだがやはり目的になるわけではないだろう。

 


 結局、よく言われることはどれも決定打にはなりえない。

 普通に考えると、たまたま自分が生まれ生きているのだから、別に生きる目的が与えられているわけがないので、当然のことである。誰の曲とは言わないが、「生きている理由なんてない。だけど死にたくもない。こうして今日もやり過ごしている」というのが実情であろう。

 国や社会は私たちにいろんなことを押し付けてくるが、別にそれに必ず従わなければならないわけではないし、生きる目的になるわけではないだろう。ある国や社会にとって都合の良いことを勝手に人の生きる目的にするなという話である。

 

 以上のように、「宗教的観点を抜けば別に生きる目的などない」というのが私の回答であるが、人一般に生きる目的がないのであれば、個々人が好きに目的を設定すればよいのではないと思う。

 いかに子供を幸せにするか、いかに会社のために頑張れるか、いかに人生を楽しむかなどを追求し、それらを人生の目的とするのは別に良いだろう。

 ミルも言っているが、人に迷惑をかけない範囲であれば自由は認められるべきであるし、好きに自分の人生の目的を設定し、好きに生きればよいのではないか。阪神タイガースのために生きようが、同人活動のために生きようが構わないはずである。

 

 私自身は、「このどうしようもない愚かな人間社会の合理性、正当性、平等性、公平性を少しでもあげること」を生きる主目的の一つとして考えているが(何言ってんだこいつ。そろそろ革命を起こすとかいうんじゃね)、果たして実現可能なのだろうか。一個人の力はあまりに微弱である。