読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

震災支援が偽善に見える理由 人はわかりやすい不幸しか助けようとしない

社会 マスコミ

 熊本地震からもうすぐで半年が経ちますが、近年では震災支援をしたり黙とうをしたりする人に対し「売名」、「偽善者」と謎の叩きが頻発する状況となっています。

  「良いことをしているのにバッシングは酷い」と思う方が大半だと思いますが、本音を言うと「確かに偽善っぽいな」と感じている方はそこそこいるのではないでしょうか。少なくても、私は偽善っぽさをどうしても感じてしまいます。

 

 そこで、何故少なくない人が偽善っぽさを感じてしまうのか、何故私自身偽善っぽいと思ったのかについて個人的に思うことを書いてみたいと思います。

 

 

○被災者はわかりやすい不幸状態

  「地震によって、家を失った・家族が亡くなった」というのは、誰がみても一目でわかる不幸な状態です。そこまで行かなくても「住む場所がない・物資不足に困っている」という状況があるわけで、これほどわかりやすい不幸もなかなかないでしょう。

 被災者は明らかに苦しい思いをしていて、支援を必要としていますし、誰からも「運悪く、助けが必要な状況に陥った可哀相な人」だと認識されます。

 

 震災報道も多く、被災者支援は特に注目を集めますし、震災支援をすればそれだけ世間からの良い評価を受けやすい状態にあるといえるでしょう。

 

 

○同じく不幸状態にある人たちが大勢いるのに、その人たちには支援しようとすらしない

 しかし、よく考えると、被災者以外にも「運悪く、助けが必要な状況に陥った可哀相な人」というのは現在の日本には数多く存在します。

 過労やパワハラから鬱病を発症して仕事を辞めざるを得なくなった人、リストラに遭って生活苦にあえいでいる人、いじめや虐待を受けて将来を悲観している子ども、母子家庭で食べるものにも困っている人、事故や障害のせいで思い通りに生活できない人など支援が必要な人は少なくありません。

 

 そういう「わかりにくい不幸」にある人たちも被災者と同様苦しい状況にあるというのに、支援は何故か被災者にばかり行くものです。

 震災支援をする人の一体どれだけが、そういうわかりにくい不幸にある人たちの支援をしているのでしょうか?おそらくほとんどしていないと思います。

 

 そういう支援の偏りを見ると、私としてはどうしても「本当に人を救いたいと思うのなら、被災者以外も支援すべきじゃないか」、「普段から人を支援すべきじゃないか」とつっこみたくなります。

 さらに穿った見方をすると、震災被害に遭った人を支援すれば評価をもらえるけど、それ以外の人を支援してもそんなに評価されないから・イメージアップを図れないから、被災者だけを支援しているんじゃないかと思えてくるのです。

 

 

○わかりやすい不幸もわかりにくい不幸も本質に大差はないはず

・苦しんでいることに変わりない

 被災者と、それ以外のわかりにく不幸に苦しんでいる人たちというのは、いずれも苦しんでいることに変わりはありません。

 むしろ同情されず、偏見を受け、公的支援も少ない分、わかりにくい不幸の人たちの方が苦しみは大きいでしょう。ホームレスの人なんかを見ると一目瞭然です。同じ家がない人でも「社会のゴミ。早く○ね」と言わんばかりの反応ですからね。実際には、病気や障害で働けない可哀相な人であるかもしれなくても、そういう可能性を微塵も感じていないのです。

 そう考えると、むしろより支援するべきはわかりにくい不幸状況にある人の方だと、私は思うのです。

 

・ともに自己責任では片づけられない

 世の中には、「被災者は天災という不運に見舞われて不幸になったから救うべきだけど、それ以外の人が不幸になったのは自己責任だから救う必要がない」という方もいるでしょう。

 

 しかし、わかりにくい不幸にある人たちの苦しんでいる理由をみると、自己責任であるとはとても言い難いケースも少なくありません。

 事故や病気、障害なんて自分の努力では避けようがないことが多いですし、転職が難しい上働いていないと落伍者扱いされる日本社会では、病気のリスクを抱えてでも無理して働くのがやむを得ないでしょう。

 いくら会社自体がホワイトでもたまたま上司がサイコパスの場合もありますし、親がろくでもなければ子どもに逃げ場はないわけです。

 

 いつどの地域に産まれるか、どの家庭で生まれるか、どういう障害をもって生まれるかなんかは特にそうですが、この世界には自分の力ではどうしようもないことがあまりに多すぎるのです。性別も容姿も選べませんし、人生がゲームだったら「キャラメイクもできない、運要素が大きすぎるクソゲー」と言われることでしょう。

 理不尽なことがあまりに多すぎる社会ですし、どうにもできないところで不幸な目に遭うことが圧倒的に多く、自己責任で済ませられる範疇を優に超えていることがほとんどではないでしょうか。

 

  それに、わかりにくい不幸にある人が苦しんでいるのが自己責任というのなら、震災で苦しんでいる人たちも自己責任でしょう。

 地震大国の日本では多かれ少なかれ、早かれ遅かれ震災が起こるのは予見できるわけですし、その備えをしない自己責任と言えるはずです。

 地震保険に入っていなかったのが悪い、地震の頻発する地域で暮らすのが悪い、地震があっても生活できるように自助努力すべきだったのにそれが足りなかったと言い始めたらキリがないでしょう。

 

 こう考えていくと、わかりにくい不幸にある人たちのどこが震災で苦しんでいる人たちと違うのかわからなくなってきます。

 おそらく、本質はほとんど変わらないのではないでしょうか。

 

 

○結局、どこが原因なのか

 他にも原因はあるのでしょうが、「苦しんでいる人たちの中でも、あえて被災者だけ救おうとするところに疑問を感じている」というのが、偽善っぽく感じる大きな原因だと私は感じています。

 被災者が注目されている分、支援すれば高い社会的評価を簡単に受けられるから、イメージアップのパフォーマンスとしてわかりやすい不幸にある人だけを救おうとする。どうもそう疑わざるをえないのです。

 

 

○おわりに

 実際には偽善の気持ちなど一切ない人も多いでしょうし、偽善でも被災者にとってはありがたいならまあいいじゃないかとも思えますが、本当に慈愛の心があるのであれば、普段から「わかりにく不幸」に苦しむ人も含めて苦しんでいる人に手を差し伸べてほしいと思います。